珠洲焼の歴史

歴史

大きな流れ

 12世紀中葉(平安時代末)から15世紀末(室町時代中期)にかけて、現在の石川県、能登半島の先でつくられていした。中世日本を代表するやきものの一つで、北海道南部から福井県にかけての日本海側に広く流通していました。

そのつくり方は、古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器を受け継ぎ、窖窯(あながま)を使い燃料の量に対して供給する酸素の少ない還元炎焼成(かんげんえんしょうせい)で、1200度以上の高温で焼き締めていくものです。火を止めた後も窯を密閉し窯内を酸欠状態にすることで、粘土に含まれる鉄分が黒く発色し、焼きあがった製品は青灰から灰黒色となります。

 ほかの中世の窯と同様に、壺や甕、鉢の3種類が中心でした。14世紀に最盛期をむかえて、日本列島の四分の一を商圏とするまでになりましたが、15世紀後半には急速に衰え、まもなく廃絶しました。

 この土地を若山荘として領有した京の九条家と、直接荘園経営にあたった日野家の関与があったと考えられています。珠洲焼の生産期間が若山荘の成立・衰退とほぼ軌を一にしています。

年表

平安(12〜13世紀)
1143 [康治2年]
能登最大の荘園、若山荘(現珠洲市~旧内浦町)が成立
12世紀中頃
珠洲窯が開窯
13世紀はじめころ
甕、壺、擂り鉢が中心で、一部、宗教器や宴器を焼いた
平安・室町(14〜15世紀)
13~14世紀
珠洲焼の最盛期
15世紀前半
擂り鉢が主流となっていく
15世紀後半
珠洲焼が急速に衰退する
15世紀末
珠洲焼が廃絶
現代
1949 [昭和24年]
中野錬次郎氏らが、窯跡の検証、遺物の採集
1950 [昭和25年]
中野錬次郎氏が「瓶割坂窯」を調査
1952 [昭和27年]
九学会による能登総合調査で、珠洲焼を「須恵器の非常に退化したもの」として注目される
1959 [昭和34年]
「西方寺窯」が須恵器窯跡として珠洲市文化財に指定
1961 [昭和36年]
日本海綜合調査で、珠洲焼が中世のやきものであることが明らかになる 岡田宗叡氏が「能登の珠洲古窯」を『陶説』102号(日本陶磁協会)に発表
1963 [昭和38年]
日本考古学協会大会で、浜岡賢太郎氏・橋本澄夫氏が「珠洲焼」を発表
1979 [昭和54年]
現代の珠洲焼の復興