珠洲焼の歴史

歴史

大きな流れ

 12世紀中葉(平安時代末)から15世紀末(室町時代中期)にかけて、現在の石川県、能登半島の先でつくられていました。中世日本を代表するやきものの一つで、北海道南部から福井県にかけての日本海側に広く流通していました。

そのつくり方は、古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器を受け継ぎ、窖窯(あながま)を使い燃料の量に対して供給する酸素の少ない還元炎焼成(かんげんえんしょうせい)で、1200度以上の高温で焼き締めていくものです。火を止めた後も窯を密閉し窯内を酸欠状態にすることで、粘土に含まれる鉄分が黒く発色し、焼きあがった製品は青灰から灰黒色となります。

 ほかの中世の窯と同様に、壺や甕、鉢の3種類が中心でした。14世紀に最盛期をむかえて、日本列島の四分の一を商圏とするまでになりましたが、15世紀後半には急速に衰え、まもなく廃絶しました。

 この土地を若山荘として領有した京の九条家と、直接荘園経営にあたった日野家の関与があったと考えられています。珠洲焼の生産期間が若山荘の成立・衰退とほぼ軌を一にしています。

壺・甕・鉢の編年図(時代による形の変化)

◎甕
口縁
 Ⅰ期は薄く、頸(くび)から外に向かってラッパ状に大きく反り返っています。
 Ⅱ期になると厚みが増し、反りは弱くなります。
 Ⅲ期以降、より厚く短くなっています。

 古いものほど膨らみがあり、最大径の位置が高く、肩が張ったようなかたちです。
 Ⅳ期に生産が最大になるとともに膨らみが少なく、寸胴になっていきます。
 Ⅴ期には、口径と最大径がほぼ同じになります。
叩き目
 初期は細かく鋭利な条線が整然と並びますが、徐々に太く乱雑になっていきます。

◎壺
口縁
 Ⅰ期は頸(くび)から強く反り返り、端を平らにナデて帯状に仕上げられています。
 時代が下るにつれて徐々に反りが緩やかになり、Ⅲ期には頸部が直線的になっていきます。
 Ⅳ期になると反りはほとんどなくなり、頸が筒状に直立するものが増えます。
 Ⅴ期以降、頸(くび)が短く、口縁が厚く丸みをおびたものが増えていきます。

 初期のものは最大径が高い位置にあり、胴下半は絞り込まれています。
 時代が下るにつれて底部鉢形の開きが増して胴下半の膨らみが増していきます。
叩き目
 甕と同じ。
装飾文
 初期は多彩な装飾文を施したものが多く見られます。
 Ⅲ期を境にして装飾が簡略化し、減少傾向になります。
 *櫛目文は全期間に見られる装飾です。最盛期のⅢ期には壺の胴部に櫛目文を入れ、さらに頸部(けいぶ)、口縁に波状文を施入するものが多く見られます。

◎鉢
高台
 須恵器系の鉢は高台がありません。
口縁
 Ⅰ期は端部を軽く撫(な)でまわしただけで薄く華奢な印象です。
 Ⅲ期から口縁の厚みが増し始め、端面が外傾します。
 Ⅳ期の口縁端面は水平かやや外傾となります。
 Ⅴ期は内傾し、波状文を入れるものが多くなります。
 Ⅵ期は内傾が進行し、端面と胴の境が不明瞭になってきます。
 Ⅶ期は波状文が口縁から分離します。

 Ⅰ期は胴が丸みをおび、全体的に薄いつくりです。
 Ⅲ期から直線的なラインになります。
 Ⅵ期は口縁端面と胴の境が不明瞭になってきます。
 Ⅶ期は口縁から分離した波状文が、胴内面に施文されました。
鉢内面
 初期は無文だが、12世紀末に櫛目や押印による装飾模様が現れます。
 Ⅱ期には櫛目の装飾的なおろし目が一般化します。
 Ⅲ期には、×+を重ねたような八条の放射状のおろし目を引くことが定形化しました。
 Ⅳ期以降、8条を基本に、すき間を埋めるようにおろし目が増えていきます。
 Ⅵ期には中心から掻(か)き上げる施入法に切り替わっていきます。

珠洲焼と常滑焼の商圏 —出土地から読み解く

日本海側は珠洲焼が、太平洋側は常滑焼が生産地だけでなく、広い地域に運ばれ使われていたことがわかる。

年表

平安(12〜13世紀)
1143 [康治2年]
能登最大の荘園、若山荘(現珠洲市~旧内浦町)が成立
12世紀中頃
珠洲窯が開窯
13世紀はじめころ
甕、壺、擂り鉢が中心で、一部、宗教器や宴器を焼いた
平安・室町(14〜15世紀)
13~14世紀
珠洲焼の最盛期
15世紀前半
擂り鉢が主流となっていく
15世紀後半
珠洲焼が急速に衰退する
15世紀末
珠洲焼が廃絶
現代
1949 [昭和24年]
中野錬次郎氏らが、窯跡の検証、遺物の採集
1950 [昭和25年]
中野錬次郎氏が「瓶割坂窯」を調査
1952 [昭和27年]
九学会による能登総合調査で、珠洲焼を「須恵器の非常に退化したもの」として注目される
1959 [昭和34年]
「西方寺窯」が須恵器窯跡として珠洲市文化財に指定
1961 [昭和36年]
日本海綜合調査で、珠洲焼が中世のやきものであることが明らかになる 岡田宗叡氏が「能登の珠洲古窯」を『陶説』102号(日本陶磁協会)に発表
1963 [昭和38年]
日本考古学協会大会で、浜岡賢太郎氏・橋本澄夫氏が「珠洲焼」を発表
1979 [昭和54年]
現代の珠洲焼の復興